TEAM HISTORY / 水泳部の歴史
創部
水泳部は近代泳法が日本に導入され水泳愛好学生が競技に参加したとされる1911(明治44)年頃に萌芽が見られ、1917(大正6)年にできた神田YMCA屋内プールで学生が合同練習、地方大会に出場し始め、志田鉀太郎が水泳部長に就任した1919(大正8)年が正式な創部である。2019(令和元)年に創部100周年記念式典を挙行した。
初期黄金時代
1921(大正10)年第1回全国大学対抗競泳大会(後のインカレ)が開催され、当時別れて練習していた和久山修二、鈴木伝明などが別々に申し込みをしたが、主催者の要請により明大水泳部としてまとまって出場し圧勝した(正式に学友会加入)。翌年の2回大会以後もインカレで優勝を争い、1929(昭和4)年の第8回インカレでは武村清、村松正一らの力泳で早大の7連覇を阻み2度目の優勝を遂げ、翌年米国学生代表との対抗戦にも勝利した。
オリンピック日本代表とその活躍
明大生が最初にオリンピックに出場したのは1914(大正13)年パリ大会で、小野田一雄が800mリレーで4位に入賞している。1928(昭和3)年のアムステルダム大会では鶴田義行が200m平泳で優勝(オリンピック日本水泳界初、陸上の織田幹雄に続く金メダル第2号)、800mリレーで2位に入った佐田徳平や馬渡勇喜らが水泳界をリードした。1932(昭和7)年のロサンゼルス大会には鶴田が200m平泳で二連覇するというオリンピック水泳史上前人未到の金字塔を打ち立てほか、大横田勉が400m自由形、河津憲太郎が100m背泳で共に3位に入賞したのをはじめ、石原田悳・片山兼吉ら合計8選手が出場し水泳界に君臨した。
1936(昭和11)年のベルリン大会には石原田が連続出場し1500m自由形4位、伊藤三郎が200m平泳5位に入賞し明大水泳部の黄金時代を確固たるものにした。戦後のオリンピックでも1952(昭和27)年ヘルシンキ大会に西拡、1956(昭和31)年メルボルン大会に野田芳郎、1964(昭和39)年東京大会に大隅潔、山影武士、1980(昭和55)年モスクワ大会に設楽義信(日本不参加)、1992(平成4)年バルセロナ大会に空岡京太、2000(平成12)年シドニー大会に田中久喜、2012(平成24)年ロンドン大会に平井康翔(OWS)、2021年(令和3)年東京大会に松元克央とのべ23人が出場した。
アジア大会、国際大会での実績
1954(昭和29)年2回大会で 庄司嘉宏が400m自由形、吉村健三が800mリレーで共に優勝、1982(昭和57)年9回大会では高橋英利が背泳200mで優勝、1990(平成2)年11回大会では空岡京太が200m背泳2位、1998(平成10)年13回大会には田中久喜が出場、2006(平成18)年15回大会では佐野秀匡が200m・400m個人メドレーで優勝(11回世界水泳200m個人メドレー5位)、伊藤真が50m自由形2位、400mフリーリレーでは山元啓照と共にアジア新記録で優勝、近年は17回世界水泳(2017年)で松元克央が400mフリーリレー5位、18回世界大会(2019年)で200m自由形2位に入ったほか、パンパシフィック大会やユニバーシアード大会にも多数の選手が出場しメダルを獲得している。
第二期黄金時代(水泳部の現在)
団体ではインカレでシード校落ちするなど暫く低迷を続けたが、東京六大学水泳春季水泳対抗戦で2014(平成26)年から五連覇、インカレでは2015(平成27)年実に86年ぶりに男子総合優勝(天皇杯獲得)、以後2018(平成30)年まで四連覇、2020(令和2)年に再度優勝と大学水泳界の王者に復活しようやく第二期黄金時代を築き上げた。
練習所の変遷
創部当初は各地の湖畔やプールを転々としたが、昭和初期からは東急電鉄から寄贈を受けた日本初公認の玉川50mプールを本拠とした。以後は1930(昭和5)年建設の駿河台校舎地下の25m屋内プール(1968年閉鎖)、1963(昭和38)年落成の生田校舎50m屋外プール(合宿所併設、2004年建て替え)に移り、1996(平成8)年和泉校舎25m屋内プールと変遷した。
1928年 アムステルダムオリンピック金メダル
1932年 ロサンゼルスオリンピック金メダル
アムステルダムオリンピックで優勝した鶴田と2位の当時の世界記録保持者ラーデマッヘル
第91回インカレ優勝メンバー(明大スポーツ提供)